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皇室ニュース/ 2020
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皇室ニュース・2015/ 12~5 4・3 2・1
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皇室ニュース・2015/4・3
2015・4・24 FNN
秋篠宮ご夫妻と佳子さま、タイ王女と夕食を共にされる
「放送全内容」
秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまは、赤坂御用地のお住まいにタイの王女を招き、夕食を共にされた。
秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまは、赤坂御用地の秋篠宮邸を訪れたタイのシリントーン王女と、にこやかにあいさつをされた。
秋篠宮さまは、ご自身の結婚式に王女を招待したほか、2003年に佳子さまの初めての海外旅行となった、ご一家でタイに旅行した際に、王女を表敬訪問するなど、これまでにも家族ぐるみで、長く親交を深められている。
佳子さまも、大学の入学式以来に、カメラの前に姿を見せられた。
2015・4・20 産経ニュース (1/5ページ)  【野口裕之の軍事情勢】 政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS
大御心の柔らかみ
「記事内容抜粋」
大東亜戦争(1941~45年)を終結させるにあたり《国体護持》を貫いた歴史は、わが国近代史における最大の国難回避であったと思っている。
70年後。激戦地パラオ共和国ぺリリュー島に行幸啓された天皇・皇后両陛下が発せられた、言葉では到底表し尽くせぬ御力は、大日本帝國陸海軍の退役軍人と遺族、現地の人々を柔らかく包み込んだ。
退役軍人の一人は民放テレビの取材に、申し上げようと思っていたことはたくさん有ったが、お礼言上が精いっぱいだったとの趣旨を語っていた。 
一部メディアは「(悲惨な)戦争当時の話は触れたくなかった」といった内容を、答えとして引き出した。
否定はしない。
時間は限られていた。
緊張もしていたはず。
しかし、最大の背景ではなかろう。
ぺリリュー島行幸啓に限らず、両陛下の御心に接する国民の多くが言葉を控える。
「空間の共有」だと感ずる。
今次も、両陛下との間で深い悲しみの空間を共有し、それ以上言葉を必要としなかったのではないか。
一点の曇り=私心なき大御心は、歴代天皇と同じく国民の心を優しく、だが激しく揺さぶるのだ。
陛下と国民の間に修辞は必要ない。
そうでなければ、極めて短い会話の後「長い間にわたり、われわれ遺族以上に、散華された方々を思ってくださっていたのが分かった」という気持ちにはなれない。
   先帝陛下、御行幸での涙   共産主義者の一団も嗚咽  自然な「天皇陛下万歳!」  
中略
仁徳天皇と先帝陛下の御心が重なるが、今上陛下も先帝陛下の歩まれた道のりをたどられている。
東日本大震災(2011年)後、天皇・皇后両陛下は福島県を度々行幸啓なさった。
全国御巡幸で、先帝陛下も福島県の常磐炭鉱を行幸。
地下深き灼熱の坑内をスーツ姿で回り、半裸の男たちを激励された。
「天皇陛下万歳!」は、ここでも極極自然に起こった。 
皇統を取り去ったら、日本に何が残るのか…。
 
天皇陛下こそ世界に類を見無い日本民族の歴史そのもの、そして世界最高の権威者であらせられる。
そして日本民族の誇りであり、括りの象徴でもある。
2015・4・10 毎日新聞 古関俊樹 
<両陛下>安堵と安らかなお気持ちに…パラオ訪問終えて
「記事内容抜粋」
  ◇「両陛下は疲れている様子」と宮内庁長官
宮内庁の風岡典之長官は10日の定例記者会見で、天皇、皇后両陛下が長年の希望だったパラオ共和国訪問を無事に終えられたことについて「(両陛下は)安堵(あんど)というか安らかなお気持ちでいらっしゃるのかなと拝見している」と述べた。
日程が立て込んだため、両陛下は疲れている様子だという。
風岡長官は今回の訪問で首席随員を務め、9日朝には今年3月に厚生労働省の調査で推定6柱の遺骨が見つかった同国ペリリュー島の「イワマツ壕(ごう)」を視察した。
両陛下はその報告を受け、厚労省や現地の人の協力で遺骨が発見できたことに感謝の気持ちを示したという。
両陛下は8日から1泊2日で同国を訪問した。
 
お疲れ様でした。
十分にご静養ください。
ありがとうございました。
2015・4・9 産経ニュース (1/2ページ) 伊藤真呂武 
「慰霊の旅」の集大成 示された「覚悟」
「記事内容抜粋」
天皇、皇后両陛下は9日、先の大戦の激戦地だったパラオ共和国ペリリュー島の慰霊碑で戦没者を追悼し、海外での2度目の「慰霊の旅」を無事に果たされた。
戦後70年の節目だけでなく、疎開などでご自身も戦争を体験した80代の両陛下にとり、平和への祈りの集大成ともいえるこの旅で「不変」の強い覚悟を自らのお姿で示された。 
日本軍約1万人が犠牲になったペリリュー島の最南端に建てられた「西太平洋戦没者の碑」。
両陛下は日本から持参した白菊の花束を手向け、深々と一礼された後、海の先に望むアンガウル島にも拝礼された。
日本軍約1200人が命を落としたアンガウル島への拝礼は、ご訪問直前に天皇陛下のご意向で急遽(きゅうきょ)予定に入れられた。
この機会に、より多くの英霊の鎮魂を祈り、思い残すことがないように務めを果たされる強い決意が垣間見える。
 
日本国民の願いは二つ、先ず天皇陛下のご健康、次が靖国神社参拝である。
2015・4・9 産経WEST 
神武天皇祭る奈良・橿原神宮にも油跡
「記事内容抜粋」
世界遺産の二条城(京都市)や金峯山寺(奈良県吉野町)などで国宝の建物や仏像に油のような液体がかけられた事件で、奈良県警は9日、橿原神宮(同県橿原市)でも外拝殿(げはいでん)の外壁など計7カ所に同様の痕跡が見つかったと発表した。
県警は建造物損壊容疑で捜査している。 
県警によると、外拝殿の外壁と内部の柱、石畳、木製の柵に水滴のような跡があった。
7日6時15分~9日午前6時15分にかけられたとみられる。 
橿原神宮は初代天皇・神武天皇を祭神とし、明治23年に創建された。
文化財指定はされていない。
 
この手の事件は、日本の素晴らしい歴史に恨みを持つ同一単独犯なのか? 若しくは組織犯罪の可能性があるのだろうか? 日本もシナや韓国に似た嫌な世の中になりつつあるのか? 在日朝鮮人、シナ人の仕業なのか?
2015・4・9 産経ニュース (1/2ページ) ペリリュー島=今村義丈 
「戦友にも陛下のお声が届くはず」 生還者、遺族、パラオ国民… 晩餐会でのお言葉に深い感銘
「記事内容抜粋」
天皇陛下が8日夜の晩餐会(ばんさんかい)で、全戦没者の追悼とともに、日本とパラオ共和国の深い交流なども述べられたお言葉の内容に、生還者、遺族、パラオ国民は感銘を受けた様子だった。 
  「『遺族の歩んできた苦難』と言及していただいた。父も含め、パラオで戦ったすべての人々にとって感慨深い」。
ペリリュー島守備隊の村井権治郎陸軍少将の四男、正巳さん(79)は語った。 
14歳でパラオに移住し、アンガウル島守備隊に現地召集され重傷を負って生還した倉田洋二さん(88)は、「移住した日本人はパラオの人々と交流を深め」とのお言葉を重く受け止めた。
「現地の人々と青春をともにし、戦争がなければ一生住みたいと思っていた私には本当に印象深い。
戦友にも、陛下のお声が届くはず」と語った。
一方、遺骨収集についてレメンゲサウ大統領が会見で陛下に「加速」を約束し、陛下も晩餐会でパラオ側の長年の協力に言及されたことに、収集に尽力している影山幸雄さん(70)は「心強い。遺族が生きているうちに最後のお一人まで収容したい」。
影山さんに代々協力して慰霊碑も管理してきたペリリュー酋長、イサオ・シゲオさん(76)は「日本名を持つ亡き両親も喜ぶと、ご訪問を機に、ご遺骨収集の進展を望む」と語った。
2015・4・9 ユーチューブ 
天皇皇后両陛下、ペリリュー島で追悼の祈りささげられる(15/04/09)
「コメント」
天皇皇后両陛下が、激戦の島で、追悼の祈りをささげられた。慰霊碑の前では、島での戦いを生き抜いた95歳の男性と、言葉を交わされた。
2015・4・8 ユーチューブ FNN 
天皇皇后両陛下パラオご訪問 天皇陛下「全ての人々を追悼」(15/04/09)
天皇皇后両陛下、パラオにご到着 政府主催の晩さん会出席へ(15/04/08)
両陛下のパラオご訪問を心待ちにしている日系人を取材しました。(15/04/08)
「コメント」
天皇皇后両陛下が、太平洋戦争激戦の地に到着された。戦没者を慰霊するため、8日、太平洋の島国、パラオに到着した両陛下は、歓迎行事に出席された。
2015・4・8 産経ニュース ペリリュー島(パラオ共和国)=伊藤真呂武、今村義丈
ペリリュー島で慰霊碑にご供花 生還者の元日本兵らともご面会
「記事内容抜粋」
戦没者慰霊のためパラオ共和国を訪問中の天皇、皇后両陛下は9日午前(日本時間同)、激戦地だったペリリュー島で、日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」に供花して犠牲者を追悼された。
碑のそばで出迎えた同島などでの戦いの生還者の元日本兵らとも面会し、改めて苦労をねぎらわれた。 
両陛下は、宿泊先となったコロール島沖の海上保安庁の巡視船からヘリコプターに乗り、ペリリュー島に移られた。
同島では先の大戦で上陸してきた米軍約5万人を迎え撃った日本軍約1万人がほぼ全滅。
日本政府が昭和60年に米軍上陸地点に近い島南端に碑を建て、英霊を慰めてきた。 
両陛下は、日本から持参した白菊の花を碑に供え、深々と拝礼された。
続いて、日本軍約1200人が犠牲になったアンガウル島に向かっても頭を下げられた。
パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国の大統領夫妻も同行した。 
ペリリュー島の生還者で元海軍上等水兵の土田喜代一さん(95)やアンガウル島で重傷を負った元陸軍2等兵の倉田洋二さん(88)、遺族や遺骨収集の関係者らの出迎えを受け、両陛下は一人一人の話に耳を傾けられた。
米軍の慰霊碑にも供花するなどし、同日夕に帰国の途に就かれる。
 
これこそ世界最高の権威、皆さん、感激した事だろう。
2015・4・8 産経新聞 
陛下パラオご訪問 天皇陛下の羽田空港でのお言葉全文
「記事内容抜粋」
天皇陛下はパラオ共和国訪問にあたり、羽田空港でお言葉を述べられた。
 ◇
本年は戦後七十年に当たります。
先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。
祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。
私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。
パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。
そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。
終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。
この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。
太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。
この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。
私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。
この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。
終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。
2015・4・7 産経ニュース 和歌山支局・地主明世 神武天皇・海道東征  【若手記者が行く】
海に面した「神武天皇の井戸」から真水が湧き出す不思議…“神話の島”に残る神武東征の伝承
「記事内容抜粋」
  「今もこんこんと水が湧き続けています」。
石造りの井戸の中をのぞき込むと、思ったより浅く、澄んだ水で満たされていた。
大分県佐伯市の離島・大入島(おおにゅうじま)にある「神の井」。
初代天皇・神武天皇の故事に基づく名水の井戸だ。
訪れた一周17キロの小さな島は、日向の高千穂を出発して奈良の橿原で即位したという神武天皇の伝承に彩られ、人々の伝承対する愛着や誇りが感じられた。
  ひょうたん形の神話の島  独自の伝統・トンド火祭り  ついに見えた“幻の井戸”  
 ※この話、初めて知った。
大入島には小学生の頃キャンプ行ったが先生から何も教わらなかった。
社会に出て再びキャンプに入ったが気付かなかった。
今思えば確認しない事を至極残忍に思う。
2015・4・7 産経ニュース (1/5ページ) 【正論】  必読 
ペリリュー英霊が問う戦後精神 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
「記事内容抜粋」
8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。
これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。
最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。
  《「海ゆかば」を知らない日本人》  《日本が失ったものの大きさ》  《両陛下の慰霊に合わせ黙祷を》  
中略
追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。
そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。
 ※日本人民族は、靖国に眠る英霊達が残してくれた大きな重たい志を忘れず、自ら大和魂を呼び覚ませ! 日本人は大和魂を失ったまま、あの世に赴き、国を守ろうと一命を賭し戦い散った多くの英霊と先祖に申し開きが出来るのだろうか?
2015・4・3 産経WEST (1/4ページ) 園田和洋  【歴史事件簿】
「道鏡を天皇にすべし」突然の“神託”の真偽は…一介の僧が国家を乗っ取りかけた大騒動の顛末
「記事内容抜粋」
  道鏡の深謀遠慮(第二部下)
女帝・称徳(しょうとく)天皇の愛人として力を伸ばしてきた道鏡は天平神護2(766)年、法王に就く。
副天皇というべき、これまでになかった位で、皇族しか継げない聖域に、宮廷の誰もが「次は…」とした疑念と不安を抱いていた。そこに九州・大宰府(だざいふ)から「道鏡を天皇にすべし」とする宇佐八幡の神託が届く。
喜ぶ女帝に反対の声をあげる臣下ら。
ついに、事の真偽を確かめるため、使者を宇佐に派遣することになった。
果たしてその結果は。
  神託  再調査  宮廷から追放  
中略
結局、一介の僧が国家を乗っ取りそうになった前代未聞の大騒動は、敵、味方ともに終始「嘘」で塗り固められた、現代人顔負けの詐欺事件だったようだ。
 
「道鏡」は名だけは知っていたが、余り気を留めておらず、事件の内容までは知らなかった。
2015・4・3 産経ニュース 
「八紘一宇」の本義と三原発言 国学院大学名誉教授・大原康男
「記事内容抜粋」
少々旧聞に属するが、3月16日の参院予算委員会において、多国籍企業に対する課税問題を取り上げた三原じゅん子参院議員(自民)が「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘した際に、「八紘一宇」という語に言及したことが論議を呼んでいる。
  『日本書紀』神武伝承がルーツ
  論議が行われた「東京裁判」
  「侵略思想ではない」
漢和辞典によれば、「八紘」 は 「天地の八方の隅」 の意で、転じて 「全世界」 を意味し、「宇」 は「 軒」 または 「家」 を指す語で、「八紘一宇」 は 「世界を一つの家にする」 というのが原義である。
中略
こうした経緯を鑑(かんが)みれば、「八紘一宇」 が国策に利用された過去があったにしろ、その本義を踏まえた上で今日的な文脈で捉え直した三原議員の発言を頭から否定するのは、言論の封殺に繋(つな)がると言わざるを得まい。
 
締め括りは納得だが、チョット待った! 「八紘」 が地球(世界)を示すのか? 嘘だろう。
古来に世界が、地球が、宇宙が、見えていたと言うのか? 当時の世界観は視界に在る日本だけだろう。
拡大解釈は飛躍的でおかしい。
2015・3・29 産経WEST (1/3ページ)
大和思慕(5)朝焼けの中 慌ただしく船出
「記事内容抜粋」
  「起きよ、起きよ」 
八朔(はっさく)(旧暦8月1日)の午前4時過ぎ、子供たちの声が港町に響き渡る。
宮崎県日向市美々津。
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が美々津港から船出したことを祝う「おきよ祭り」の始まりだ。 
子供たちは、笹の葉を手に各家の格子戸をたたいて回る。
全戸を起こし終わると一カ所に集まり、「つき入れ団子」 を食べる。
あんと餅が一緒になった団子である。 
  「船団の出発が早まったため、あんを餅で包む間がなく、急遽(きゅうきょ)一緒についたから、こんな形になったといわれています」 
地元にある立磐(たていわ)神社の戸高英史宮司が話すのは、イハレビコの出港伝承にまつわる逸話である。
船材も船大工も豊富な美々津で造船し、水夫らに航海訓練も積ませていたイハレビコは、遠見の山から凧(たこ)を揚げて風向きを調べ、船出を旧暦8月2日と決めた。
ところが物見番から、潮も風もちょうどいいという知らせを受け、急遽1日の夜明けに船出した-。
宮崎市観光協会発行の『宮崎の神話』が書く伝承だ。
2015・3・28 産経ニュース 
両陛下の訪問「歴史的」 パラオ大統領が歓迎 平和国家日本を称賛
「記事全内容」
戦前、日本が統治した「南洋群島」の中心地だったパラオのレメンゲサウ大統領(59)は27日、太平洋戦争の戦没者慰霊で天皇皇后両陛下が来月パラオを訪問されることについて「光栄で、ありがたく思っている。歴史的な機会だ」と述べた。 
大統領は、戦後70年の節目を「戦争は決して良くないことだと、あらためて肝に銘じる重要な機会」と指摘。
「世界中の紛争は平和的に解決しなければならない。日本のこれまでの努力を支持する」と述べ、日本が戦後、平和国家として歩んできた道を称賛した。 
ペリリューでは日本兵の遺骨約2600柱が取り残されているが、大統領は「全員の遺骨が見つかるまで努力する」と、今後も遺骨収集に積極的に協力していく方針を強調。
島内に残る慰霊碑も台風などで損傷が目立つが「次の世代に(平和の大切さを)伝えていくためにも、維持管理を続けていく」と語った。
2015・3・27 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) ヘンリー・S・ストークス  
【目覚めよ日本】敗戦後に昭和天皇が取られた対応 21世紀まで続く皇室は「生きた神話」
「記事内容抜粋」
日本は世界で一番歴史の長い、世界最古の君主国である。
太陽の女神(=天照大神、アマテラスオオミカミ)の子孫が祭祀王(プリースト・キング)となり、その家長が皇室をつないできた。
その歴史が、連綿と21世紀まで続いている。
これこそ、まさに「生きた神話」といえる。
そんな国が有色人国家とは、白人国家には内心、許し難いのかもしれない。
それでも未開のジャングルに原住民族として生きているなら、「保護しよう」となる。
ところが、G8サミット(主要8カ国首脳会議)に唯一、非白人国家として参加を続けている世界屈指の主要国なのだ。
世界史で、敗戦国の国家元首が、敗戦後もそのまま元首を続けた例はない。
あり得ない。
戦勝国や民衆に断罪されるか、事前に亡命するか、戦勝国に対して「国と国民は譲り渡すので、自分と家族と、できれば親族の命を助けてほしい」と命乞いをするのが定石だった。
ところが、昭和天皇はまったく違う対応をされた。
1945年9月27日、GHQ(連合国総司令部)最高司令官、マッカーサー元帥は、昭和天皇を自分のもとに呼びつけた。マッカーサー元帥はソファに座ったまま、昭和天皇が直立不動で国際儀礼のあいさつをされるのを聞いていた。
次の瞬間、驚くべきお言葉が続いたと伝えられている。
「戦争の責任はすべて私にあります。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。あなたにお委せします。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
マッカーサー元帥は驚いて立ち上がり、昭和天皇を丁寧に椅子に座らせた。
真のジェントルマンの姿に心を打たれ、最後は玄関まで見送ったという。
 
日本は、日本人が世界に自慢が出来る最も誇れる権威ある天皇陛下がおられる素晴らしい国なのである。
2015・3・26 産経WEST (1/3ページ) 【神武・海道東征 第2部】 
大和思慕(4)出港の地に選んだ「造船の里」
「記事内容抜粋」
  〈美々津(みみつ)千軒〉 
大正12(1923)年に国鉄日豊線が開通して衰退するまで、そう呼ばれ、京風の町家が軒を連ねて栄えた美々津港(宮崎県日向市)。
高千穂宮をたったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が船出したとされる港はここである。 
「神武天皇が船出された港として御津(みつ)と呼び、それが美々津と転訛した。地元ではそう伝え、お船出の物語を語り継いでいます」
  「なほ東に行かむと思ふ」  
中略

  【解説】日本海軍発祥の地

イハレビコが船出した美々津は、日本最古の港といわれるとともに、海軍発祥の地とされる。
立磐神社の参道入り口には「日本海軍発祥之地」の石碑が立っている。
中略
皇紀2600年の記念事業の一環として、昭和17(1942)年9月に建立。
碑文は首相も務めた海軍大将、米内光政が揮毫(きごう)した。
碑には西都原(さいとばる)古墳群で出土した埴輪(はにわ)を参考に造られた神武天皇の船が飾られている。 
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって碑文は破壊され、「平和塔」と名称も変わったが、44(1969)年に地元有志らの強い要望で揮毫は復元された。
   =続く(次回は27日掲載)
2014・3・25 TBS
両陛下のパラオ訪問、詳細な日程を公表
「放送全内容」
天皇・皇后両陛下の来月のパラオ訪問について、詳細な日程が公表されました。
両陛下は、戦後70年にあたり 「太平洋戦争の戦没者の慰霊」 のため来月8日から1泊2日の日程でパラオを訪問されます。
8日夕方にパラオに到着後、空港で歓迎式典に臨み、夜はパラオ、ミクロネシア、マーシャルの大統領夫妻と懇談するほか、晩餐会に出席されます。
宿泊先は海上保安庁の巡視船で、この巡視船から翌日、ヘリでペリリュー島に渡られます。
ペリリュー島では日米双方の慰霊碑に花を供えるほか、島民との懇談などが予定されています。
こうした中、厚生労働省は24日、遺骨の収集をするためにペリリュー島へ職員を派遣しました。
ペリリュー島には今でもおよそ2600人の遺骨があるとされています。
また、旧日本兵が身を隠した地下壕が多数あり、今回は今まで調査できていなかった地下壕1つを2日間にわたって調べる予定です。
 
巡視船の乗組員全員、光栄だろう、生涯、自慢が出来るな。
両陛下のお姿を拝見出来無い乗組員も多かろうが、日本国民象徴の宝である両陛下を確りお守りして欲しい。
天皇陛下がご移動なされる事は日本国が移動していると同じなのだが、自衛隊は護衛に当たらないのか? 
2015・3・8 産経ニュース (1/5ページ) 「正論」
戒めとしたい対中「苦渋の記憶」 国学院大学名誉教授・大原康男
「記事内容抜粋」
別に古傷を暴いて気分をスカッとしようとしているのではない。
「人の噂も75日」と俚言にもあるように、忘れっぽい日本人への戒めとして、ここ30年にわたる中国との外交関係を振り返り、同時代を生き、直接関わった者の一人が若い世代にもこの苦渋に満ちた記憶を共有してもらえれば、との思いで一筆したためた次第。
  ≪隘路に追い込まれた靖国問題≫  ≪強行された天皇ご訪中≫  ≪汚点残した「1カ月ルール」≫
 
靖国問題はこれ又、朝日新聞記事が原因、皇室関係は日本の政治家が原因、それぞれ皆日本人自身が元お起こしで原因を作ったのである。
政治家はこれら全てを総括しなければならない重要な事案であり、情けない話である。
2015・3・6 Global News Asia 編集:TY  
秋篠宮同妃両殿下の御臨席・日ラオス外交関係樹立60周年記念夕食会を開催
「記事全内容」
2015年3月5日夜、日ラオス外交関係樹立60周年記念夕食会が、秋篠宮同妃両殿下の御臨席の下、公式実務訪問賓客として来日中のトンシン・タンマヴォン・ラオス人民民主共和国首相一行も列席して、在京ラオス大使館で開催された。
この夕食会には、日本側から河村建夫 日ラオス友好議連会長、土屋品子同議連幹事長、門川大作京都市長、アジアの障害者活動を支援する会の八代英太顧問。
ラオス側からは、ソムディ計画投資大臣、ケンマニー商工業大臣、アルンケオ外務副大臣などが参加した。 
最初に、ケントン・ヌアンタシン駐日ラオス大使から「日ラオス外交関係樹立60周年記念夕食会を開くことができて光栄です。
過去60年間のラオスの経済発展に対する日本からの支援に感謝しています。
両国は政治面でも国連、ASEAN、メコンなどの枠組を通じ協力してきています。
ハイレベルの要人往来も頻繁に行われています。
60周年のロゴマークに用いられている桜と象は、それぞれ日本とラオスの象徴であり、両国関係の歴史的瞬間を彩るものとしてふさわしいものです。
両国の友好関係の更なる発展を祈念しています」と述べた。 
中根一幸外務大臣政務官から、日ラオス外交関係樹立60周年記念夕食会が盛大に開催されたことに祝意を表し、今年1月の自身のラオス訪問の様子にも触れ、両国の友好関係の明るい将来を確信していると話した。
また、トンシン首相の故郷フアパン県における約300本の桜の植樹や、京都市動物園へのラオスからの子ゾウ4頭の寄贈など60周年を記念する交流行事が多数実施されていることに言及し、関係者の尽力に対する謝意を表明し、トンシン首相訪日の成功を祈念していると語った。
その後、終始なごやかな雰囲気の中、参加者の間で両国の幅広い分野における交流について、懇談が行われた。
 
親日国に友好はいいが、シナ、韓国に友好は無い。
2015・3・5 毎日新聞 真鍋光之 
<皇室>両陛下 パラオ訪問時、隣国首脳と会見
「記事内容抜粋」
  ◇マーシャルのロヤック大統領とミクロネシア連邦のモリ大統領
天皇、皇后両陛下による4月のパラオ共和国訪問で、両陛下が同国のメレンゲサウ大統領だけでなく、同じ南太平洋・マーシャル諸島のロヤック大統領とミクロネシア連邦のモリ大統領とも会見される方向で調整が進んでいることがパラオ政府関係者への取材で分かった。
3人の大統領は両陛下とともに約1万人の日本人が戦死した太平洋戦争の激戦地、ペリリュー島を訪れて慰霊もする。
3カ国は第一次世界大戦後から約30年にわたって日本が委任統治し、戦争では多くの日本人が戦死した。
戦後60年の2005年、宮内庁は両陛下の3カ国訪問を検討したが、受け入れ環境が整わずに断念した経緯がある。
また、両陛下の訪問を前に、パラオ政府は日本人の遺骨収集作業を加速させるため、今月26、27の両日、島内で埋もれたままになっている壕(ごう)を発掘する方針を決めた。
島には旧日本軍が利用した壕が多くあるが戦後に米軍が埋めたため、どのくらいの遺骨があるのかわかっていない。
 
日本政府は、手を尽くし、相手国と話し合い、遺骨の早期帰国を目指して欲しいものである。
2015・2・28 産経ニュース (1/3ページ)  【皇室ウイークリー】 
(372)両陛下、初来日の英ウィリアム王子をご歓待 皇居外周走られた皇太子さま、伴走者は「ランニングポリス」?
「記事内容抜粋」
天皇、皇后両陛下は27日、初来日となった英国のウィリアム王子を皇居・御所に招き、約1時間半にわたって昼食や懇談を楽しまれた。
王子の祖母であるエリザベス女王の即位60周年記念行事出席のため平成24年5月に訪英されたとき以来の再会で、両陛下は玄関で王子をにこやかに出迎えて握手を交わされた。 
続いて、皇太子ご夫妻が王子を東宮御所に招かれた。
玄関では皇太子さまが出迎え、初対面の王子に英語で「お会いできてとてもうれしいです」とあいさつされた。
約40分間、通訳なしで懇談し、ご夫妻で見送られたという。
2015・1・17 産経WEST (1/2ページ)
天皇権力が弱体化すれば出雲大神の霊威力増大…出雲大社造営は「国護り」の代償だった?
「記事内容抜粋」
古代出雲の繁栄も長く続かなかった。
研究者の中には、二度にわたって征服されたと説く人もいる。
最初は吉備勢力に支配され、後に大和朝廷の支配下に入るとされる。
その時期は意外に遅く、およそ6世紀の半ばと考えられている。
記紀の国譲りの神話は、その間の経緯をなにほどかは語っているであろう。 
古代出雲の敗北は、他の地方勢力の敗北と同一に論じることはできない。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡が物語るように、古代出雲には弥生時代の大いなる繁栄の事実がある。
古代出雲びとたちは、そのことを決して忘れなかった。
彼らの胸底には消しがたい誇りの念がこびりついていた。
そんな出雲びとが、大和朝廷に屈服しなければならなかったとき、他の諸国の人々とは比べものにならないほどの強い衝撃を受けたはずである。
その結果、出雲では、長く後世に揺曳する二つの事柄が生じるのである。
2015・1・15 時事通信 
舒明天皇の初葬地か=国内最大級の方墳発見―石積み、堀出土・奈良
「記事内容抜粋」
奈良県立橿原考古学研究所は15日、同県明日香村で、天皇か大豪族クラスの古墳の一部とみられる石積みと堀が見つかったと発表した。
7世紀中頃の方墳と推定され、墳丘は一辺50メートル以上。
石舞台古墳(7世紀前半、同村)を超える国内最大級の方墳とみられる。
同研究所は規模などから、中大兄皇子(天智天皇)の父、舒明天皇が最初に葬られた墓の可能性が高いとしている。
舒明天皇は没後、最初に葬られた場所から同県桜井市の段ノ塚古墳に改葬されたとされる。
同研究所の菅谷文則所長は「(改葬後に)元の場所がどうなったか、解明の端緒になる」と話している。
同研究所によると、見つかった古墳は四角形と推定され、墳丘下部とみられる石積みが10段(高さ計約60センチ)と、堀の跡が確認された。
堀は幅が約3メートル90センチで、底部に石が敷かれていた。
墳丘の反対側の堀の斜面には多数の石が貼り付けられ、発掘された分だけで高さが11個分(約1メートル)あった。
墳丘と堀は、場所によって異なる種類の石材が丁寧に使い分けられていた。
石室は見つかっていない。 
2015・1・14 産経WEST (1/3ページ) 【神武天皇・海道東征】
イワレビコ誕生(1)文明伝播 国を豊かにする旅  (1/3ページ)
イワレビコ誕生(2)生まれながら聡明、意志固く  (1/3ページ)
イワレビコ誕生(3)幼い心に映る「水穂」の原風景  (1/3ページ)
「記事全内容」
宮崎市の高台、平和台公園に「平和の塔」が建っている。神事で用いる御幣の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。
昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して建てられ、十銭紙幣に描かれるほど親しまれた。 
戦前は名称も異なった。
「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。
カムヤマトイハレビコノミコト、後の初代神武天皇が日向から東征し、大和に橿原宮を造営した際の言葉が基になっている。
2015・1・9 
【直言極言】陛下の御言葉と安倍談話[桜H27/1/9]
「コメント」
戦後70年を期して出されるであろう「安倍談話」について、念頭に発表された天皇陛下の御言葉を振り返りながら予測する。
2015・1・7 産経ニュース (1/2ページ) 伊藤真呂武、今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)前半】
「南太平洋に慰霊に行きたい」 何度もご提案で実現
「記事内容抜粋」
戦後50年となった平成7年、天皇、皇后両陛下は強い希望をかなえ、広島、長崎、沖縄、東京・下町への「慰霊の旅」を果たされた。
しばらくたったころ、陛下は、侍従長だった渡辺允(まこと)さん(78)に「『南太平洋』に慰霊に行きたい」と相談された。 
南太平洋というのがミクロネシア地域、国でいえば、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島を指されているのは明らかだった。
いずれも先の大戦時には日本の委任統治領で、米軍との攻防で甚大な戦禍に見舞われていた。 
海外での慰霊は周囲には唐突に映ったかもしれないが、陛下は長年にわたってお考えを温められてきたのだろう。
実際、7年の慰霊の旅の後に出された感想の文書では、「遠い異郷」という言葉を使い、海外の犠牲者や遺族への追悼の思いをつづられている。
2015・1・7 産経ニュース (1/3ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)後半】
鎮魂の祈り、敵も味方もない 尽きない英霊への思い
「記事内容抜粋」
平成17年6月、米自治領サイパン島の「バンザイクリフ」。
天皇、皇后両陛下は、高さ80メートルの断崖絶壁に立ち、白波が立つ青い海原に向かって深々と頭を下げられた。 
この岬では、米軍に追い込まれた日本軍や民間人が「天皇陛下万歳」と叫びながら自決したとされる。
その魂が眠る聖地へ黙礼されるお姿は、見る者の心を強く揺さぶった。 
現地で見届けた遺族の一人は「ようやく戦争が終わった。天皇陛下は昭和天皇の戦争に対する思いを引き継いでこられ、大きな宿題を果たされたと思う」と感慨深そうに話している。
  《あまたなる命の失せし崖の下 海深くして青く澄みたり》
 
日本は常に国の繁栄と世界平和を願う天皇陛下を頂く素晴らしい国である。
人と言うのは恐れ多いが、世界は広と言えども天皇陛下程、神々しい人物がおいでになるのだろうか? 日本民族は天皇陛下を誇りに堂々と生きるべきである。
産経新聞には素晴らしい記事を掲載して頂き感謝している。
2015・1・5 産経ニュース (1/3ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)後半】
目にされた焼け野原「何もない。原宿の駅に」 戦没者ご慰霊への“原体験”
「記事内容抜粋」
天皇陛下が昭和19年7月から疎開されていた栃木・日光にも、20年に入ると空襲の警報が響き始めた。 
ほどなく「疎開とは言わず、『夏季錬成だ』と言われて奥日光に行くことになった」。
陛下と学習院初等科の同学年で最後まで疎開をともにした明石元紹(もとつぐ)さん(80)は振り返る。 
標高約650メートルの日光から約1500メートルの奥日光へ、いくつもの急カーブが連なる「いろは坂」も越えてたどり着いた先が、硫黄のにおいが立ち込める湯元温泉だった。
  「なぜ特攻隊戦法を」  書き初めの決意
中略
  「平和國家建設」 
陛下はこの言葉を実践するかのようにその後、国内各地、さらには海外で、戦没者慰霊の旅を重ねられることになる。(今村義丈)
2015・1・5 産経ニュース (1/2ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)前半】
父の詔勅聞き「変わられた」 サイパン陥落でご疎開、奥日光での終戦
「記事内容抜粋」
  パラオ・ペリリュー島の戦いが終わってから1年足らずで日本は敗れた。 
     「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び-」 
昭和20年8月15日正午、ラジオから流れた昭和天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)が日本と日本人にとって一大転機となったこの瞬間、皇太子だった11歳の天皇陛下も父の声を聞かれていた。
場所は、栃木・奥日光の山深い湯元温泉の老舗「南間(なんま)ホテル」(現在は廃業)別館2階奥の間。当時は「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた皇居から約130キロ離れた、疎開先だった。 
側近らは周りで立ち尽くし、むせび泣いた。
「陛下の放送で日本が負けたことをはっきり知った」(昭和49年のお誕生日会見)というご様子を、ホテル関係者は「頭を垂れ、正座したひざに置いたこぶしはぐっと握り締められていた」と側近から聞いている。
2015・1・2 産経ニュース 
陛下「国民一人一人に少しでもよい年に」 皇居で新年一般参賀 初参加の佳子さまも笑顔で手振られる
「記事内容抜粋」
新年恒例の一般参賀が2日、皇居で行われ、天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻はじめ皇族方が宮殿「長和殿」のベランダに立ち、集まった人々に手を振って応じられた。
午前9時半の開門までに昨年より5千人ほど多い約1万7千人が列を作り、10時10分ごろからの初回で陛下はマイクを通じ「新しい年をみなさんとともに祝うことを、誠によろこばしく思います。本年が国民ひとりびとりにとり、少しでもよい年となるよう願っています。年頭に当たり、わが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とお言葉を述べられた。 
昨年12月に20歳の成年を迎えた秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまも初めて参加し、笑顔で手を振られた。
 一般参賀は午後も午後1時半ごろと同2時20分ごろに行われる。
2015・1・2 ユーチューブ 
【海外の反応】「日本の文化を象徴してる」 皇宮護衛官の交代式を観た外国人の反応!!
「コメント」
映像は皇居正門にて行われる皇宮護衛官の交代式の様子。
毎日行われておりますが、警備上の問題から正確な時間などは公表されていない為、目にするには運、或いは待ち続ける根気が必要になるようです。
2015・1・1 元旦 
9:00 元旦の大分の天気 大晦日に降った雨が一旦止んだが、元旦朝、ちらほら降っていた雪が強風と共に大粒の雪と変わり30分で辺り一面銀世界になった。
元旦の大雪、余り記憶にない。
吹雪く景色を見ながら「2015年 日本はシナ、韓国との歴史戦に臨むのだが、厳しい一年になるだろう」と思ったが、午後には晴れたが再び曇り風が吹いた。
日本は夏までが大変、次第に良くなるが、再び10月頃から荒れ模様の一年であろう。(当たるも八卦当たらぬも八卦)
初夢・・・一富士二鷹三なすびでは無かったが、彼女が楽しげに男相手に電話をしている姿を見ながら傍に立つ己が焼き餅を焼いている夢だった。
初夢は人生初の経験であるが空しい夢、昔の彼女に夢で会えた事で良しとしなければ・・・ 
2015・1・1 産経ニュース 
天皇陛下、戦後70年の節目に新年のご感想
「日本のあり方考えていくこと極めて大切」 天皇陛下ご感想(全文)
「記事内容」
天皇陛下は、年頭に当たっての感想を宮内庁を通じ1日付で発表された。
今年が戦後70年の節目にあたることに触れ、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」とつづられた。 
天皇、皇后両陛下は今年、戦没者慰霊のためにパラオ共和国を訪問される。
戦没者慰霊での海外訪問は、戦後60年となる平成17年の米自治領サイパンに次いで2例目となられる。 
陛下はご感想で、昨年の御嶽山噴火や大雨、大雪などでの被災者、4度目の冬を迎える東日本大震災の被災者らを案じた。 
平成26年末で81歳となった陛下は、24年の心臓手術後も体調は安定し、現状の公務を続ける意向を持たれており、宮内庁は行事の組み方を工夫するなど年齢に応じたご公務のあり方を検討するとしている。
 
戦後70年是非、靖国神社へおみ足をお運び頂きたいと願っている。
天皇陛下が何も気兼ねなさらず、靖国神社に参拝する日が何時になるのだろうか? 幕が切って落とされているシナと韓国との歴史戦に日本は必ず勝利しなければならないとの思いを強くした。
2015・1・1 毎日新聞 大久保和夫
<皇室>天皇陛下「歴史学ぶこと、極めて大切なこと」
「記事全内容」
  ◇15年年頭の感想、終戦70年に触れて
天皇陛下は2015年の年頭に当たり、宮内庁を通じて感想を公表された。
今年が終戦から70年という節目の年であることに触れ、戦争で多くの人々が亡くなったとし、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と思いを述べている。
今年4月初めに西太平洋のパラオ共和国を訪問し、戦没者への慰霊を行う。
また、阪神・淡路大震災20年の追悼式出席のため1月に兵庫県を訪問。さらに3月11日には丸4年となる東日本大震災の追悼式に出席し、2日後に仙台市で開かれる国際会議で宮城県を訪れるなど、自然災害の被災地や被災者への思いを新たにする。
また、5月に石川県で予定される全国植樹祭には、この春開通する北陸新幹線の利用も検討する。
秋篠宮家の次女佳子さまは、国際基督教大学(東京都)に今春入学。皇族最長寿の三笠宮さまが12月に100歳を迎えられる。
両陛下や皇族方は元日、祝賀行事に出席。
2日は一般参賀で皇居の宮殿ベランダに立つ。
同日は午前9時半から午後2時10分まで皇居・正門(二重橋)から入場できる。
 
天皇陛下のお言葉に込められた思いは我々と同じ思いなのだろうか?